都市の構造

広島の石内で、知的障害者の施設を設計した。
着工を前に住民問題に近い状況が発生した。 近くに障害者が来ると生活が乱れるということである。
相互監視のゆきとどかない世界の登場に対する抵抗である。

福山の鞆で住まいを設計した。
完成、入居を前に住民問題が浮上した。 このまま住むのであれば排水を流させないというのである。
施主のおじいさんがかつて住んでいたその土地は荒れ放題で、しかたなく近所の人達が土地を管理していた。
そのことを忘れて、のうのうと、その上澄みのみを飲んで住むのはけしからんという訳である。
法を越えて、排水接続拒否はリアリティを持っていた。
実際、完全非排水となっている家もあるのである。

都市を考える時、農村と対比して考える事は、ヒントになる。
農村の生活は農業に依存している。 農業は水、農業用水に依存している。 水は上流から流れてくる。 上流で妙な事をされたら下流は全滅である。
否応なく相互監視の社会が生まれてくる。
加害者、被害者のはっきりした、川の構造-直流の関係社会構造である。

一方、都市の構造は如何なるものか。
湖のまわりに沢山の家がある。 どの家からも生活排水は流れる。 湖は序々に汚れてくる。
誰かが、大量に汚染しているのだろうけど、常時ではないので、誰かは、はっきりとは定めにくい。
そもそも自分も犯人の一人でもあるので、事を荒立てるのもはばかれる。
犯人探しは、すかしっぺの犯人を探すような空しい作業である。

農村が川なら、都市は湖の構造をした社会といえるのではないだろうか。
直列ではなく並列の構造である。

水を綺麗にしたいと思ったとき、川なら簡単である。 加害者をつき止め、排水させない、または取水させないようにすれば済む。
湖を綺麗にしたいと思ったらどうすれば良いのだろうか。

「治安を良くしたいと思ったら防犯カメラをつける」・「交通渋滞(これも加害者と被害者が完全にダブった現象、交通渋滞を嘆く本人が事の原因である)を緩和しようと思えばバイパスをつける」・「空気が汚れたと思ったら、空気清浄機をつける」 といった発想で湖、都市は澄んで来るのだろうか。

都市を解決するとき、原因と結果という直流の構造を前提としていくのでは限界がある。
都市が、「湖の構造」であることを前提としての発想をしなければ本質的な解決にはなりえないのではないだろうか。

 

 

農村は生産の場である。  一方、都市は消費の場である。
・・・・・このことが構造の違いを生んでいる。

農道はデコボコ道である。 つまずいて転んでも転んだ方が悪い。 人が道に合わせなければならない。
一方、都市の道はフラットである。 つまずいて転べば、自分以外の誰かが原因である。 道が人や車に合わせて作られるべきなのである。

農村で問題が生じると、問題は科学的に実証される。
長雨が問題であったのか、干ばつが原因であったのか、原因は確認できるところに所存し、科学がこれを証す。
自然を責めても仕方なく、誰かが悪いのではなく、自分を責める他ない。

一方、都市に問題が起きた時、その原因は掴みにくい。
都市は消費の社会であるが、電気を消費しても原子力発電所を日頃体験している訳ではない。
電気だけでなく水もそうだし、食べ物も、殆んど全てがそうである。
その時、原因の科学的解明は一挙にリアリティを失い、原因は「~らしい」といった程度のことになってしまう。

要するに都市の消費者は「無知」を強いられているのである。
無知ゆえに責任は他者に向けることに平気でいられる。
「無知」と「消費者の権利」が生むものは消費者エゴであり欲求不満である。

テレビ番組「あるある大辞典」にみられた事実、科学のねつ造だけでなく、大手家電さえも堂々と定義も効果も不明な「マイナスイオン」なるもので消費者の欲求をあおる非科学的消費社会をつくっている始末である。
非科学、エゴ、欲求不満、情報化はこれに拍車をかけている。

都市の構造が生む欲求不満のストレスを解消するには、まずわれわれが問題の根源に対して「無知」であることを自覚し、問題を客観的に理解することから始めなければならない。

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