都市と庭

建築には永遠が求められる。

私達が日常的に接する仕事の場面でも、メンテナンスフリーという言葉が使われる。
建築の完成と持続性が求められる。
光と空間に満たされた永遠の建築をつくることは、建築家の夢である。

「庭」に完成ということはあるのだろうか。
木々は成長と変化を繰り返し、夏の庭は冬の庭と趣きを異にする。
常に変化し続けており、変化の一断面一断面が完成と言う他ない。

建築の一部が破壊されれば、建築は不完全となる。 手を入れることは、すなわち元の状態にもどすことである。
一方、 庭に手を入れることは、庭の変化に手を貸す程度のことである。
「庭」は常に変容し、時と共に生き続ける生命体の如きであり、人はオーガナイザーではなく伴走者にすぎない。

ひるがえって、「都市」に眼を向けてみたい。
建築家の考えたいくつかの都市計画は、建築の延長上にあり、完成とその永遠性を夢見たものと考えられる。

しかし、現在の都市はどうだろうか。
規模がでかく、常に変化し続け、否応なく「庭」的な在り様を示している「都市」であるが、その心の部分では、やはり完成と永遠を前提としているのではないか。
にもかかわらず、実際には不完全な状態で変容し続けているのが都市である。
その矛盾が都市に対するイライラを生んでいるのではないだろうか。

都市は完成しないものである。 都市は常に変化していることが常態である。
都市は一元化した価値観では語れない。
正しい都市は存在せず、時として正しい都市の断面を見せる。
人は都市を制御できない、都市の変化に少し手を貸すのみである。
「都市」は建築よりも、むしろ「庭」に近い存在である。

「都市」をこう考えてみてはどうだろうか。

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