建築見学ツアー

先週末、表参道を中心に東京建築見学ツアーに出かけた。沢山の建築を見た。
建築家が建築を見ての感想は、いくつかのタイプに分けられるのではないかと思う。

  1. 周辺や出来ている建物を見て、すぐに、他の在り方を考えたくなってくるもの。 エーッ、ああも出来 たし、こうも出来たし、もったいないなぁ-みたいな思いになってしまう建築。
  2. 確かに考えられていることは解るけど、それならああすればよかったのに、こうすればもっとそのことが生きていたのにと思ってしまう建築。
  3. 確かにそのように考えればこのようになるし、うまいなぁと思うけれど、その考え方そのものは好きじゃあないなぁ、何か違うんじゃないのと思うケース。
  4. 考え方は素直に受け入れられるし、出来上がりは本当にスゴイよなぁ、脱帽! という建築。
  5. 最後にこれは番外だが、考えられていることも出来たものも、いいのか悪いのかようわからん!パス!というもの。

1つ1つの建築に対し、このようなことを思いながらテクテク歩き続けた訳だが、見学した建築を上記のタイプ別に分類してみよう。

  1. のタイプ   表参道ヒルズ
  2. のタイプ   TOD’S表参道ビル      日本看護協会ビル
  3. のタイプ   ディオール表参道       ルイヴィトン表参道ビル
  4. のタイプ   プラダブティック青山店    QUICO神宮前
  5. のタイプ   ONE表参道

表参道ヒルズ、本当に良くなかった。同潤会のときは通りに深みを与えていたが、今は壁。
裏通りとの連続性は全くなくなり、長城のように存在して、裏と表をはっきりつくってしまった。
内部の吹き抜けでさえ、通りとの連続性はゼロである。
根本的なところでの配慮を抜きにしておいて、通り添いにはチンケな流れをつくるなんて何かおかしい。

それに比して、プラダとQUICOは本当に良かった。
表も裏もなく、街の中に建ち、内部も街の延長のようである。
建築の中にいるのではなく、街の中を歩いているという印象である。

建築を考えようとするとき、いきなり建築からスタートするのではなく、一歩踏み込んで、都市をつくる、環境をつくるということから出発する気分が、この2つ建築からは強く感じられた。
一見、同じ指向性のようにも受け取られるTOD’Sとプラダの違いも、この辺にあるように思われる。

①②③のどのタイプもが、建築単体で勝負!という気分に満ちていたように感じられた。
その点、QUICOは、その勝負にはそっぽを向いてつくられていた。
建築から都市に逃げていくようにつくられた建築、という表現が伝わりやすいかもしれない。
坂本一成というところの、決め付けず・,とらわれない-自由の気分に充ちた建築であった。

帰りの飛行機の中で所員がプリントしてくれていた二川・妹島・隈・伊東の会話の中身を反芻してみた。

ブランドの建築を都市の中に建てる。もしそのブランドが去ったら、その建築の存在は何なのかという命題をめぐっての議論である。

土地の価格と建築の価格の比較から、建築はすでに都市の中のインフィルで、デパートの中のブランドショップと同じように建て替えられるサイクルにあるものではないかという会話がされていた。
話はそこで終わっていたのだが、現実にそうであるかどうかとは別に、本当にそれで良いのかどうかはもっと突っ込んで話さなければならないことではないだろうか。

建築は都市のインフィルかインフラか、私は後者の立場をとりたいと思うのだが、この話題そのものは建築という概念の捉え方、建築家のあるべき姿勢に対する認識のズレが生んでいるのではないか。
家具を手に入れるような気分で個性的な住宅を購入する若い世代のユーザーと、それに対応する建築家の姿にも話題はダブっているように思う。

最後に見学した建築?は横浜フェリーターミナルであった。
日本の将来を勘違いして作られたに違いないこの巨大な建造物では、奇妙なイベントが展開されていたが、全体として閑散とした状況であった。
歩き疲れた足では、先端にたどりつくだけでも大変な距離である。

QUICOが都市に逃げ込んだ建築とするなら、このターミナルは建築を土木に還元したといえそうである。
閑散とした風景ではあったが、もしこの施設が建築家の作る建築として出来ていたとしたら、まさに廃墟に近い風景になっていたに違いない。

今回の旅では、都市に関わることの重要さ・その関わり方について、わずかなヒントを得たように思う。
一方で、都市を読み取る概念やヴォキャブラリーが如何に貧困かも思い知らされた旅でもあった。

先頭に戻る