市民球場跡地を新市民求場にする提案
旧広島市民球場を大事にする
鞆の街、御手洗の街を歩いた。神社仏閣であれば残りやすいだろうが、街そのものが残るのは、相当、色んな条件が重なり合わなければ、ありえないだろう。文化や歴史は、博物館にではなく都市にこそ、残されなければならないと実感した。そうした意味では、市民球場は残されるべきものと思った。
「モッタイナイ」という言葉が、エコの観点から再認識されているが、言葉本来の意味から少しズレて使われている言葉なので、少しだけ危険を感じる。経済的な意味合いを少し含んでいるのが、それである。
市民球場を壊すのは、モッタイナイというと、土地単価、土地利用の観点から数字をはじいた場合、どちらがモッタイナイということになるのかという議論になってしまう。
野坂昭如のエッセイで、食物を粗末にする行為に向けて、モッタイナイではなく、「バチ当たり」という言葉に出会った。経済ではなく、道徳、倫理の意味を含んだ言葉のように思う。バチ当たりは、大事にしないことに対する天罰であろう。そこで、提案である。「大事にする」という言葉で、いろんなことに対応してみては、どうだろうか。経済、道徳の臭いがなくて使いやすい。
市民球場を大事にする。その歴史を大事にし、周辺環境を大事にして跡地計画を考えてみたら、どういう案が考えられるのだろうか。
提案の「市民求場」は、エコをテーマにした場の提案である。今の時代の精神をすり込むこと、これも文化、歴史を語る都市のインフラとして、OKなのではないか。