建築は見えないものをデザインすることだと強く意識して建築に向かっていると、これまでぼんやりとしか感じられてなかったことも、はっきりと理解できるようになることがある。
例えば、教育の現場である。
学生の計画エスキスでシンメトリックなプランのもの、円型やピラミッド型の造形的なもの、和風趣味なもの、柱割グリッドから出発するもの等に出くわすことがある。
彼らに対して何を言ってやれば良いのか、言葉を失って、指導言語が見当たらないという状況に何度も陥ってしまう。
その理由が、それらのエスキスは、皆、形態等、見えるもののデザインをスタートとしており、即ち、彼らの検討していたものは建築ではなかったからだ、ということに気がつく。
建築は見えないものをデザインすることであって、形態は結果に過ぎないにもかかわらず、建築を学ぶ過程が写真雑誌等によって、逆に流れる弊害がここでも生じているのである。
以前、衛生放送でパリコレのファッションショーを深夜、見るともなくぼんやり流していて気がついたことがある。
通訳を通して流れてくる言葉は、ファッションそのものの解説ではなく、その服を着る女性像の説明ばかりであった。
曰く、経済的に自立した女性、社会の誰ともイーブンな関係の女性、知的で、社会に向けても家庭に向けても自信に満ちた女性、云々。デザイナーが作り上げた女性像を理解したモデル達が、歩き方から顔の表情まで完璧に演じている様子などが細かく解説される。
映像に目をやると、デザイナーのファッションを身につけたモデルの次々の登場で、確かに解説の女性像、デザイナーの描いた人間像、世界像の表現としてファッションショーが展開されていた。
服の形のアレコレでなく目に見えないもののデザイン、ある女性の物語、デザイナーの描いたストーリーが、ファッションショーという形式をとって表現されているということが理解できた。
20年近くも前、あるコンサートに出かけていった。ウィントンマルサリスのジャズトランペットである。
目をつむり、彼の吹く、これでもかという程高音のトランペットの音色に身を委ねていた。
過去と未来の接点に身が置かれ、トランペットの音によって、どんどん未来、次の時空に向けて押し出されていくような自分を感じた。
又は、彼の演奏する音楽の世界、暗闇の未来の世界へどんどん引き込まれていく自分を感じた。
音を時間に乗せて、人をある世界に運んでいくのが音楽なのかと、ぼんやり感じたのを思い出す。
音は、はなから目に見えないものだが、ここでも、音、メロディ等以前に彼の描くストーリー、引き込んでいく世界こそが音楽の命なのだと確信された。
建築においても、目に見えないもののストーリーをどうデザインしていくのかが最重要テーマであることを再認識して、未来の建築を探っていきたいと思う。
例えば、住宅である。
ここで展開される家族のドラマはどうデザインされるのか、住む人と、光や風との間にどのようなストーリーが生まれるのか、空や緑とのストーリーは何如か。
ある世界像を表現するファッションショーのように、闇をつんざいて、時間を切り裂いていくトランペットの音のように、建築は世界像をもって、未来へ向けて構築されなければならない。