未来の「建築」を直接うらなおうとすると、勢い、建築素材、工法、科学技術の可能性の延伸予測ゲームとなってしまいがちである。又は、社会のありようの予測ということで、鉄腕アトムかブレードランナーかという論にはまりがちである。こうした論議とならないようにするために、少し迂回して、もう少し身近な予測、例えば、クライアントはどうなるのか、未来の建築家像はどうなるのか等に思いを巡らせてみたいと思う。
未来の建築家像
建築や建築家が一般雑誌に取り上げられることが頻繁になってきた延長上には、どのような変化が起こるのであろうかというのは皆が思っていることであろう。
この現象は、建築が技術であったのが、アートとなり、ブランドとなった経緯に沿うものであろうが、一方、この流れを終焉に導くもののように思われる。
さながら、建築家カタログ、建築カタログとなった一般誌を見る読者は、建築家でなく、自らを中心に置き、どの建築家に依頼するかでなく、どの建築家と家を作るかという形に重心を移して、眺めているに違いない。
マスターコンダクターとしての建築家ではなく、コラボレーションの組み手としての建築家である。
このようなユーザーの延長上には、丹下、村野、黒川のような巨匠スタイルの建築家像は生まれる土壌はなく、問題意識の裏返しとしての革命建築家、伊東、山本、妹島、西沢といった建築家像さえも、カタログの中では、区別が難しくなりそうである。
旦那と大工から権利を剥奪して絶対者となった建築家は再び旦那の良き相談者となり下がるかもしれない。
一方、様々なクレームに対して、クライアントと施工者の陰に隠れて難を逃れていた建築家も、社会的認知と共に、個人的利害のクレームばかりか、社会資産としての建築という面からも激しく攻撃される存在になってくるであることも考え合わせると、社会的に認知された建築家という存在は、より自由に創造的世界に入り込む状況に一見みえながら、その実、実体は、その社会的権利を自ら放棄し、個人的な物ずくりにいそしむ保守的な建築家像に逃避するのではないか。
このことは、一般誌の台頭による建築専門誌の地位下落とこのことは無縁ではない。
カタログと専門誌が同じ書棚に並んだことで、専門誌がもっていた建築の流れをつくるオピニオンリーダー的役目は、インターネットの登場が拍車をかけて地位を失うに違いない。
小さな建築家達が向かう道は、理解者ではなくて発起人であるところの依頼者に恵まれて、より特殊化したマニアックな世界を築いていくことに力が注がれる。
情報のグローバル化とそれに伴う情報の受け手のタコツボ化現象は建築世界でも例外ではなく、例えは悪いが、テロリストの如く小さな世界から世界に向けて発信する幻想を追う、建築家の大集団が生まれるのではないか。多種多様、無方向性、没社会性、タコツボ建築家の大量発生。
このような未来の建築家像の到来を見据えた上で、少なくとも私達は、その次に来るべき建築家像を描かなければならないであろう。
革新的であるけれども社会に影響が少ない世界から、革新的でないかもしれないが、大きく社会に影響する建築像。それは物理的なものや空間ではなく、お互いの関係やシステムのようなものかもしれない。
未来のクライアント像
今後誰が建築を発注するのか。
ダムが必要なのではなくて、ダム工事が欲しかったというような出来事と同様に、色んな建築は必要から建設されたのではなく、補助金の獲得経済の活性化の為のものだったものも多い。
今後このような建築がなくなり、一企業一個人が発注者となるのであれば、公共の為、皆の為の一般解が求められる時代は終わり、特殊解としての建築が求められるに違いない。
個人レベルにおいては建築は親子代々といった時間概念は完全になくなり一生の一部に当てられる生活道具となったのは確実である。
一方、企業も大企業といえども永遠を感じさせるものではなくなり、ベンチャーの急成長会社が社会で活躍している。ましてや昨今のリニューアル、リノベーションの流れの中で、建築の完結性、永遠性の神話は完全に崩れ、建築は意味において「軽く」造られ、その特殊解の傾向は一層強まるであろう。
むしろ、採算度外視の特殊建築競争がクライアントによって展開される。
バブル時と異なるのは、スターアーキテクト、外タレアーキテクトのブランド志向性による競争でなく、クライアント自身がその中心的プロデューサーとなることである。
何故なら、建築を造ることは、クライアントの自己表現、自己実現の手段となったからである。
かつて、建築はユニバーサルで空気や風景、背景と同化するもので、インテリアから家具、服飾になるにつれて個人の個性の表現が強くなるものであったが、今後は全く逆。
建築こそ、個人、個性の特殊性が要求され、その中に、ニュートラルな家具、ニュートラルな個人が存在するという構図になろう。
クライアントの自己実現の手段としての建築の特殊化は、建築カタログによって信じ込まされた、建築の無限の可能性という根拠のない前提によって、世界に只一つの合言葉で、しばらくとどまることのない自己満足のバトルが展開されるのであろう。
嵐が止み、静かになったとき、バブルの建築、ポストモダンの建築が、白々しく遠くに見えたときと同じ状態が再び見えたとき、新しきクライアント達は何を望んで、世界に建築を望むのであろうか。
私達は、未来のまたその先のクライアントの心に目を向けなければなるまい。
未来の職人像
未来の作り手はどのような存在になってくるのであろうか。
大工、棟梁は少し前までは、デザイナーであり、ビルダーであった。デザイナー部分を建築家に奪われ、プレカット技術の延長としての人間機械にまで、急激な変化の波に飲み込まれてしまった。今、デザイナーでありビルダーでもあることが許されているのは造園家、植木屋さんだけであろう。
そうなった理由は、一つは、造園計画が図面化しづらい性格のものであること。
今一つは、対象が自然、つまり、ああすればこうなるという、帰結が明瞭でないものを相手にしているからに違いない。
れであれば建築の職人達は今後どうなるのか。
どんな形態もコンピューターの力で図面化できるようになり、難しい仕事は工場で行われ、現場では単純な仕事だけが実行されるということであれば、職人はもう存在しなくなるのではないか。
熟練した技術は不要、替わって、作り方マニュアルこそが職人像に替わるものとなるのではないか。
では、作り方マニュアルは誰が作るのか。
設計者を中心とした技術グループ。建築家と現場監督さんと職人さんのグループである。
ここでは、未来の建築家像と職人像は完全に接近、その像は殆ど重なり合って見えてくるだろう。
このような職人像、マニュアル像をもとに、建築家像も描きなおさなければなるまい。
建築家と構造設計家のコラボレーションに、そのほう芽はすでに見えているのではないか。