目に見えないものをデザインするということ

先日、日本理美容学会なるものがあって、パネリストとして招かれた。

散髪屋さんと建築家はその創造を取り巻く状況が似ているということで、幾度かマイクを向けられた。
発注者がいること、施主が注文をつけること、創造の対象にそれぞれ条件や状況があることなど、他のアートにはない共通点が多い。
異なる点といえば機能を持つこと、高額であること、結果が長期に渡ること等かと思いをめぐらした。

パネルディスカッションを終えて、何日かもっと本質的な差異があるような気がして、それが言葉としてハッキリと意識されないモヤモヤが続いていた。
学会のテーマが「デザイン」だったので、その言葉に拘泥されていたのか、理美容は視覚芸術だけれども、建築は体験芸術だということを忘れていた。
その延長上に思考をめぐらせると、理美容は目に見えるものをデザインの対象とするけれども、建築は目に見えないものをデザインするアートだと言うことができるのではないだろうか。

十数年も前、「あなたの感動した建築的体験を海外と国内で1つづつ挙げてみて下さい」というインタビューを受けたことがある。
ローマのフォロ・ロマーノを散策した体験と、真夏に京都の町屋に入った時の体験を挙げたことを覚えている。フォロ・ロマーノは以前にも挙げた、自然や廃墟に共通した自由さ、計画の理論や空間に強制されない自由な建築体験が、心に残っていたものである。

真夏、強い陽ざしを受け、目的の町屋に着いた。
引戸を開けて中に入ると、薄暗い空間、高い天井、奥に通り庭の涼しげな光、左の見世の間からは格子越しの柔らかい光が畳に落ち、事務の女性が優しく声をかけてくれた。
一気に汗が引き、涼しい空気が全身を包んでくれた。
その時の建築的な感動は、格子のデザインでもなく、天井に架け渡された大きな梁でも、通り庭のしつらえでもなく、空気そのもの、光とかボリウムとか湿度等を含んだ空気そのものであった。

建築が体験を目的にしたものであるにもかかわらず、建築を学ぶ術は、写真であったり、映像であったり、全て目に見えるものであることが、建築の教育、建築の設計に大きな間違いを生み出しているのではないか。数年前、菊竹清訓設計の大江戸博物館、少し後に横浜フェリーターミナルを体験し、妙な気持ち良さを体験した。
共に、建築と言いつつも、ほとんど土木といったスケールで、そこでは計画された空間ではなく、ある「環境」が準備されているだけという印象が残った。
建築を思考するにあたっての建築は、建築をデザインするのではなく、どういう環境を作るのかといった視点の欠落を示してくれていたように思う。

これからの建築を考えるにあたり、決して、結果としての目に見えるものの美しさや新鮮さに心奪われることなく、建築はあくまでも、目に見えないものと目に見えないことのみをデザインの対象とするものであることを再度認識して、再出発しなければならないのではあるまいか。

では、目に見えないものことをデザインするということは、具体的にどういうことか。
そのデザインの対象と手法はどういうことがあり得るのか。

一度、今持っているデザインの手法と武器を全て捨て去り、見えないものに対する思考の言語、空間化の手法、デザインの武器を零から探し出さなければ、これからの建築を構築することはできないのではないか。

目に見えるものをデザインするという心一切を捨てることからスタートしたい。

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